2024,10,10, Thursday
2800~2300年ほど前、ヨーロッパ史の草創期に、古代ギリシア人たちは颯爽と名乗りを上げました。エーゲ海沿岸には多くの都市国家(ポリス)が築かれ、明るく合理的な気風によって、人間中心の文化が花開きます。
学問が発達し、文学・美術の傑作が生み出され、古代ギリシアは黄金時代を迎えました。
◆◇◆◇◆
思想の分野も例外ではなく、後世に名を残す学者を輩出しましたが、その一人、パルメニデス(前5世紀)を取り上げてみます。
このパルメニデスという人物は、青い海に白い家、陽気な人々が酒浸り(?)みたいなイメージの土地にあって、どうやら引きこもって考え事ばかりしていた節があります。
◆◇◆◇◆
彼はこんなことを考えます。世界は多彩で、たえず流動変化するように見える。しかし、それは世界の本当の姿なのだろうか。
本当の「存在」とは目に見えるものではなく、心(理性)でしか捉えられないものなのではないか。
◆◇◆◇◆
ものごとは「考えることができるからこそ存在する」のではなく、「存在するからこそ考えることができる」のである。
「ある」(存在)と「あらぬ」(非存在)について考えると、「あらぬ」はあらぬのであるから、考えることも語ることもできない。「あらぬ」について考えることは無意味で虚無である。だから「ある」を受け入れざるをえない。
◆◇◆◇◆
「ある」ものの生成とは、「あらぬ」ものが「ある」ものとなることであり、消滅とは、「ある」ものが「あらぬ」ものとなることである。
しかし、「あらぬ」を考えることはできないのだから、これは矛盾している。よって、もし「ある」のならば、「あった」でも「あるだろう」でもなく、徹頭徹尾 「ある」のでなければならない。
つまり、真の「存在」は生成も消滅もしない。
◆◇◆◇◆
彼は、この調子で、実在の「非存在」を前提とすることができない以上、生成、消滅、運動、変化は語ることができないことを示します。
そして、真の「存在」とは不生不滅、連続・不可分割、不動、完全性を持つものだと結論づけるのです。
◆◇◆◇◆
さて、現代に生きる私たちは「質量保存の法則」を知っているので、何もないところから何かが生成することはないし、存在しているものが消滅することはないというくだりは、納得がいきます。
でも、真の「存在」とは運動もせず変化もしない、球の塊のような完全・完結なものだと言われれば、日頃の経験とどう折り合いをつけたらよいのかわからなくなってきます。
しかし、私たちが世界を構成しているものを解きほぐすとき、目に見えるものばかり気にしていると見失うものがある、という指摘は一理あると思われるのです。
◆◇◆◇◆
彼は、ものごとの真実に近づくためには、観察よりも理性に頼るべきだといいます。彼の存在に関する議論は、後継者たちに引き継がれ、西洋哲学の主要なジャンル「存在論」となります。
さらに、「私たちが目で見ている現象の世界」と、「理性が把握する存在の世界」をどのようにして整合させるのかという論点を巡り、哲学者たちの活発な議論が繰り広げられていくのです。
本当の「存在」とは目に見えるものではなく、心(理性)でしか捉えられないものなのではないか。
◆◇◆◇◆
ものごとは「考えることができるからこそ存在する」のではなく、「存在するからこそ考えることができる」のである。
「ある」(存在)と「あらぬ」(非存在)について考えると、「あらぬ」はあらぬのであるから、考えることも語ることもできない。「あらぬ」について考えることは無意味で虚無である。だから「ある」を受け入れざるをえない。
◆◇◆◇◆
「ある」ものの生成とは、「あらぬ」ものが「ある」ものとなることであり、消滅とは、「ある」ものが「あらぬ」ものとなることである。
しかし、「あらぬ」を考えることはできないのだから、これは矛盾している。よって、もし「ある」のならば、「あった」でも「あるだろう」でもなく、徹頭徹尾 「ある」のでなければならない。
つまり、真の「存在」は生成も消滅もしない。
◆◇◆◇◆
彼は、この調子で、実在の「非存在」を前提とすることができない以上、生成、消滅、運動、変化は語ることができないことを示します。
そして、真の「存在」とは不生不滅、連続・不可分割、不動、完全性を持つものだと結論づけるのです。
◆◇◆◇◆
さて、現代に生きる私たちは「質量保存の法則」を知っているので、何もないところから何かが生成することはないし、存在しているものが消滅することはないというくだりは、納得がいきます。
でも、真の「存在」とは運動もせず変化もしない、球の塊のような完全・完結なものだと言われれば、日頃の経験とどう折り合いをつけたらよいのかわからなくなってきます。
しかし、私たちが世界を構成しているものを解きほぐすとき、目に見えるものばかり気にしていると見失うものがある、という指摘は一理あると思われるのです。
◆◇◆◇◆
彼は、ものごとの真実に近づくためには、観察よりも理性に頼るべきだといいます。彼の存在に関する議論は、後継者たちに引き継がれ、西洋哲学の主要なジャンル「存在論」となります。
さらに、「私たちが目で見ている現象の世界」と、「理性が把握する存在の世界」をどのようにして整合させるのかという論点を巡り、哲学者たちの活発な議論が繰り広げられていくのです。
あさのは塾便り::本・映画など | 03:02 AM | comments (x) | trackback (x)