成績評価と子どもたち


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◆先日、たまたまラジオを聞いていましたら、終戦直後の算数の教科書は、今よりも例題の文章が長く、物語の形をとっていたという話をしていました。

 地図の縮尺を教える単元では、子どもたちが住む町の描写から始まり、町をもっと知りたいという気持ちから地図作りを始め、そこでやっと、地図の寸法はどうなるかという本題に入るのだそうです。

 今から見れば、ずいぶんのんびりとしたテンポの教科書に見えます。

◆文章題が苦手な子どもたちは、短い文章を読んだだけでは、なかなか情景を思い浮べることができないものです。

 実際にお店に行けば、おつりの計算を間違うことはないのに、読み慣れない文章で表現されると、たし算なのかひき算なのか、わからなくなってしまいます。

 そんな彼らにとっては、昔の教科書方式なら、かなりの手助けになったことだろうと思います。

◆今日の教育は、簡潔な文章から的確に要点を読み取り、決められた処理を素早く行えるような人材を養成しています。そうした人々によって、高度な文明社会の運営が可能になります。

 しかし、他方で、彼らの硬直性や画一性が、ときに重大な判断ミスを生むことも、指摘されるところです。

◆ラジオでは触れていませんでしたが、当時の義務教育は、今でいうゆとり教育の方向に振れていました。

 ゆとりといえば、マイナスのイメージがついてしまいました。けれども、もともとは、成績優秀な政治家、官僚、軍人たちが揃いながら、戦争を避けることも止めることもできなかったという事実を前にして、自分の頭でものを考えられる子どもを育てたいという気運があったわけです。

◆しかし、1957年にソ連が世界初の人工衛星打ち上げに成功すると、冷戦下の西側諸国は大きな衝撃を受け、数学・理科教育の刷新を余儀なくされます。

 日本もその例外ではなく、さらに高度経済成長の担い手が必要とされたこともあって、「考える」よりも詰め込み優先といった方向へ傾くことになりました。

 その後、方針転換したゆとり教育は、多くの批判にさらされて、取りやめになりましたが、だからといって、それが詰め込み主義の欠点解消を意味するわけではない、という点に留意する必要があります。

◆こうしてみると、日本の教育制度は迷走を続けているようにも見えます。

 しかし、人間が作る制度に完璧なものはあり得ないということを前提にするなら、試行錯誤を続けることは、当然の有り様であるともいえます。

◆むしろ、私たちは現行の制度やそれに由来する評価基準が、あくまで相対的なものに過ぎないことを肝に銘じるべきでしょう。

 学校でテストの点数が悪かったとしても、それは今日の評価法のもとでの点数に過ぎないということです。

 制度は時代によって、揺れ動きます。そして、子どもたち自身の価値は、本来点数による評価とは、何の関係も持たないものなのです。
あさのは塾便り::本・映画など | 02:00 AM | comments (x) | trackback (x)

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