2013,03,31, Sunday
ある日、--私が五つか六つの時だったろう--父は祖父に、「そろそろ秀樹にも、漢籍の素読をはじめて下さい」と言った。その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならんだ古色蒼然たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ、突然入ってゆくことになった。
どれもこれも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岩壁であった。夜ごと、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。
祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の先が一字一字を追って、
「子、日く……」
私は祖父の声につれて、音読する。
「シ、ノタマワク……」
素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思識な恐怖心を呼び起すのであった。
暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に触れるものは、えたいが知れたかった。緊張がつづけば、疲労が来た。すると、昼の間の疲れが、呼びさまされるのである。
不意に睡魔におそわれて、不思議な快い状態におちることがある。と、祖父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいていたりした。私はあらゆる神経を、あわててその一点に集中しなければならない。
辛かった。逃れたくもあった。
寒い夜は、坐っている足の指先がしびれて来たし、暑い夕方は背すじを流れる汗が、気味悪く私の神経にさわった。
(湯川秀樹『旅人』から、一部省略)
◆ 読み書きそろばん
上に紹介した文章は、日本で初めてノーベル物理学賞を授賞した湯川秀樹氏の回想録の一節です。100年前の学者の家庭ではこんな教育が行われていたわけで、質実剛健とした当時の雰囲気がうかがえます。
ここに描かれた漢文の素読は、江戸時代の寺子屋で行われてきた、伝統的な教育方法です。内容が分からずともよいから、昔の書物をひたすら大きな声で読みあげるのです。
こういうやり方は時代遅れだと考える方もいますが、なかなかどうして、現代の教育を考え直すヒントが隠されているように思います。
◆ 行き届いた教育環境
今日の学校では、カラー印刷の豪華な教科書が無償で配布されています。安価な通信教育も普及して、その工夫された教材には同業者ながら感心してしまいます。
さらに、コピー機やパソコンが発達して学習ソフトも増え、プリントがどんどん印刷できるようになりました。
それなのに、です。これだけ勉強環境が整ってきたというのに、近年話題になってきたのは、子どもたちの学力低下の問題なのです。何かがおかしいとはお思いになりませんか?
◆ 本当に必要な「勉強力」
学力低下の原因は、ご存じ「ゆとり教育」にもあるでしょうが、この問題はもっと深いところに根を下ろしているように思われます。
それは、教材の発達自体が、かえって子どもたちの「勉強力」を奪っているのではないかということです。
今日の教育現場を見ていると、私は過保護なハイキングを想像してしまいます。
親たちは、歩きやすく高価なシューズやカバンを、惜しげもなく子どもに買い与えます。道に出れば業者が待ちかまえて、ガイドはするわ、カバンは持つわと、至れり尽くせりのサービスです。
さらには、政府がハイキング専用道路を造ると宣言し、歩きたくない子どもには無料でカウンセリングをすると言い出すのです。
◆ 自信を失った大人たち
さぞかし快適なハイキングになるでしょうが、どこか方向性がずれていると思いませんか。
そもそも、ハイキングにまず必要なのは、最後まで歩き通そうという子どもたちの意気込みであり、それを支える基礎体力であるはずです。
子どもに十分な「気力」と「体力」が備わっていれば、少々荷物が重かろうが、道が悪かろうが目的地には着けるのです。
そういう子どもに成長させるためには、親も教師も日頃から信念を持って、子どもを厳しくしつけ、叱咤して育て上げなければならないでしょう。
こういう点に関しては、今は大人も子どもも、昔と比べて明らかに分が悪くなっているように思われます。
根本的な「勉強力」は一朝一夕では身につきません。それなのに、なるべく早く、なるべく楽に目的地につくことばかりを考える人が増えているのです。
◆ 問題解決のヒント
分かりやすく目配りの利いた教材は、子どもたちを気軽に勉強に引き入れます。しかし、それは裏を返せば、気軽に放り出せるということでもあります。
黒板の文章や数式を1字ずつしか書き写せない子ども、先生の話を聞いてメモが取れない子ども、ノートを書き続ける握力が保たない子どもが出てきている時代です。
5歳の湯川秀樹氏が祖父と差し向かいで、毎晩意味も分からない漢文と格闘させられた逸話には、こうした事態を解決するための先人の知恵が含まれていると思うのですが、いかがでしょうか。
「シ、ノタマワク……」
素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思識な恐怖心を呼び起すのであった。
暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に触れるものは、えたいが知れたかった。緊張がつづけば、疲労が来た。すると、昼の間の疲れが、呼びさまされるのである。
不意に睡魔におそわれて、不思議な快い状態におちることがある。と、祖父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいていたりした。私はあらゆる神経を、あわててその一点に集中しなければならない。
辛かった。逃れたくもあった。
寒い夜は、坐っている足の指先がしびれて来たし、暑い夕方は背すじを流れる汗が、気味悪く私の神経にさわった。
(湯川秀樹『旅人』から、一部省略)
◆ 読み書きそろばん
上に紹介した文章は、日本で初めてノーベル物理学賞を授賞した湯川秀樹氏の回想録の一節です。100年前の学者の家庭ではこんな教育が行われていたわけで、質実剛健とした当時の雰囲気がうかがえます。
ここに描かれた漢文の素読は、江戸時代の寺子屋で行われてきた、伝統的な教育方法です。内容が分からずともよいから、昔の書物をひたすら大きな声で読みあげるのです。
こういうやり方は時代遅れだと考える方もいますが、なかなかどうして、現代の教育を考え直すヒントが隠されているように思います。
◆ 行き届いた教育環境
今日の学校では、カラー印刷の豪華な教科書が無償で配布されています。安価な通信教育も普及して、その工夫された教材には同業者ながら感心してしまいます。
さらに、コピー機やパソコンが発達して学習ソフトも増え、プリントがどんどん印刷できるようになりました。
それなのに、です。これだけ勉強環境が整ってきたというのに、近年話題になってきたのは、子どもたちの学力低下の問題なのです。何かがおかしいとはお思いになりませんか?
◆ 本当に必要な「勉強力」
学力低下の原因は、ご存じ「ゆとり教育」にもあるでしょうが、この問題はもっと深いところに根を下ろしているように思われます。
それは、教材の発達自体が、かえって子どもたちの「勉強力」を奪っているのではないかということです。
今日の教育現場を見ていると、私は過保護なハイキングを想像してしまいます。
親たちは、歩きやすく高価なシューズやカバンを、惜しげもなく子どもに買い与えます。道に出れば業者が待ちかまえて、ガイドはするわ、カバンは持つわと、至れり尽くせりのサービスです。
さらには、政府がハイキング専用道路を造ると宣言し、歩きたくない子どもには無料でカウンセリングをすると言い出すのです。
◆ 自信を失った大人たち
さぞかし快適なハイキングになるでしょうが、どこか方向性がずれていると思いませんか。
そもそも、ハイキングにまず必要なのは、最後まで歩き通そうという子どもたちの意気込みであり、それを支える基礎体力であるはずです。
子どもに十分な「気力」と「体力」が備わっていれば、少々荷物が重かろうが、道が悪かろうが目的地には着けるのです。
そういう子どもに成長させるためには、親も教師も日頃から信念を持って、子どもを厳しくしつけ、叱咤して育て上げなければならないでしょう。
こういう点に関しては、今は大人も子どもも、昔と比べて明らかに分が悪くなっているように思われます。
根本的な「勉強力」は一朝一夕では身につきません。それなのに、なるべく早く、なるべく楽に目的地につくことばかりを考える人が増えているのです。
◆ 問題解決のヒント
分かりやすく目配りの利いた教材は、子どもたちを気軽に勉強に引き入れます。しかし、それは裏を返せば、気軽に放り出せるということでもあります。
黒板の文章や数式を1字ずつしか書き写せない子ども、先生の話を聞いてメモが取れない子ども、ノートを書き続ける握力が保たない子どもが出てきている時代です。
5歳の湯川秀樹氏が祖父と差し向かいで、毎晩意味も分からない漢文と格闘させられた逸話には、こうした事態を解決するための先人の知恵が含まれていると思うのですが、いかがでしょうか。
あさのは塾便り::勉強・子育てなど | 03:08 AM | comments (x) | trackback (0)